◎神様は一様におかげを下さっている。おかげは降るようにあっておる。おかげは絶対のもの、そのおかげを水も漏らさず受け止め、一人でに物が出来ていく手立てを合楽理念には十二分に説き明かしてあるのである。だから合楽では○少を育てねばならぬと、それこそ方法論を講じなくても○少が育って行くのであり、お道の教師も○少の中から次々に育っていっておるのである。合楽では合楽理念に喜び勇んで血肉にしていく内に、甘木の初代安武先生のように、金光大神が先に立って開墾して下さってあるから布教がみやすう出来ていく事になるのである。そういう合楽理念だからこそカトリックが国教のブラジルに、とても他宗教は入れない厳しい時に末永先生の布教が可能となったのであり、合楽の凄まじい祈りの中で、最近、他宗教に対しての厳しさが和らいできているのである。殆どの宗教が表行的修行を強要する。それは茨の道を歩まねば神に近ずけないと観念しているからで、構えを作るとそれが楽しゅう有難う頂け、喜びに喜んでという心が募ってくる。この先どんなことがあっても困るとか恐いとかないという心まで開けてくるのである。先ずはどうでもままよの本気での構えを作り、喜び勇んで合楽理念を血肉にしていかねばならない。


昭和五十六年九月一日 朝の御理解


X御理解 第二十二節 天地金乃神といえば天地一目に見ておるぞ。神は平等におかげを授けるが、受け物が悪ければおかげが漏るぞ。神の徳を十分に受けようと思えば、ままよという心を出さねばおかげは受けられぬ。ままよとは死んでもままよのことぞ。


『甘木の初代の奥様が、ある時お夢を頂かれた。というのは、道を歩いておられると。一老人が、一生懸命畑を耕しておられる所であった。その横を通っておられると、そのお年よりが顔を上げて。奥様に、帰ったら安武に言うておけと、このようにして金光大神がまあ働いておるのぞというようなお知らせを頂かれたということを、以前に聞いたことがございます。』
本当にこの、まあ今日の御理解で申しますと。おかげはね、一様に下さってある。私が申しますとそれこそおかげは降るようにあっておる。降る雨のようなもの、降るようにあっておる。問題はそれを受けとめるということが、所謂、受け物が悪ければおかげが漏ると今日の御理解にありますようにね。その降るようにあっておる。また神様は一様に下さってあるというおかげを頂けるのですけれどもね。受け物が悪ければおかげが漏るぞという仰せられる。
そこで、なら受け物作りというのは、結局神様が先に立って、まあ荒れ地というような所でも、こう開墾して下さったり。行って喜びの種を蒔けばすぐ芽が出るように準備をしておって下さるのが金光大神だと言うわけだと思います。
本当に甘木の初代が甘木に布教に出られ。もうそれこそ、アッという間に道が広がったと。如何に云うならばそれ以前の安武先生の信心が素晴らしかったかということが分かります。受け物というが、所謂受け物が悪ければと仰るのですから。だからここで私共が分からなければならない事は、おかげは絶対なものだと、皆にやってあるのだと。だからそのそこんところを焦点にして、ね。
丁度、まあ云うなら弓の稽古をするようなもの。的というのは絶対なもの。それに向かって当か、当たらないかということはこちらの腕次第なのだ。それが百発百中。云うなら当たるようなおかげを頂く。そこの所の稽古が出けて。云うなら水も漏らさんようなおかげともなってくるわけでございましょう。
そういう水も漏らさんようなおかげを頂くというか稽古が積んでいくという稽古は、どういうことかというと。なら日々こうして参拝をして、御理解を頂いて。まあ教えを守らしてもらう、実験実証さしていきながら神様を云うなら信ずる力というものが段々出けて来るというわけなんですけれども。やはり構えを作らなければ稽古にならんです。
簡単に出ける。簡単に、云うならば教えを行じるということもありますけれども。実際稽古してみると、なかなかどうして本気で構えを作っとかんと出けないという事になります。
%1昨日は月末御礼信話会でしたから、皆さんの一月間のお礼のお話を云うなら、聞かせて頂きました中に。野村さんが発表しとられました。夏期信行からこっち、どんな暑かっても、暑いということは言わん。これを一つ修行にさせて頂こうと思うた、成程背中から汗がぶるぶる流れるような時もあるけれども。それを一つも苦痛と思いませんでしたという発表がありました。
%1この夏の一番のまあ修行の一つの収穫である。構えが出けておる、ね。はあ、もう暑か、もう本当にまあ術ないというところでしょうけれども、こちらが暑いと、どんなに暑かっても言わんぞと腹を決めたら確かに暑いけれども、それが苦にならなかったと。術ないと思わなかった。そして分からして頂いたことは。ははあ全てのことにこの生き方でいけば、この先恐いものはないなあということでございましたという発表でした。
%1どういう事があってもね。それをなら、土の心で受けると決めたら、例えばですよ、ね。黙って受けるなら黙って受けるということに心が決めて、構えが出けたらそういうならば腹の立つような問題でも、腹も立たん。云うなら悲しい思いをするようなことであっても悲しいと思はない。
私はそれを聞きながらね。昨日の朝の御理解の、喜びに喜んでというか、喜び勇んでという、そういう信心のはこういう中から生まれてくるんだなあということでございます。昨日の御理解です、喜びに喜んで。所謂、教祖は此方の道は喜びに喜んで開けた道という仰る。それを私は昨日ね、喜びだけぢゃいかん。それに勇みがなからなきゃいけん。喜び勇んでといういうならは信心。そういう信心ですからね。やっぱ構えを作らなければ難しいという事です。構えを作ったら容易。ですからこれから先どんな事があってももう恐いとか、困るとかいうことはない。この生き方で行けば。というものを云うならば一つの悟りでございましょうね。
%2最後に光明が発表しとりましたが。先だって山口支部の共励会におかげを頂板時の話をいろいろしておりましたが。大きな西瓜がお供えになっとった。でその西瓜の中から、合楽のお話を頂いたと言っておりましたが。兎に角西瓜と言えば、合楽では水火の行とまあ修行のことである。
%2けどもその修行はどこが焦点であるかというと西瓜のように丸い心になることのための修行なのだ。皆はただ水火はする。そして商売が繁盛するように修行をする。そして病気が治るように、もうおかげとすぐ直結するからいけんのだと、ね。云うなら水火による、それこそまあ云うならば本気ではまって修行さしてもらうということもです。まずは丸い受け物を作らせて頂くということだと。私は聞きながら感心しました。
おかげを頂く為に皆が修行するのにそうぢゃない。今日の御理解で言うならおかげの受け物を作るため、丸く心を、丸くすることの為の修行だと言ってるんです。そしてそれがそんなら水火の行にも匹敵するような、まあ厳しい修行であっても。一つそれをひとたび割ってみたら、こんなにもうまい。こんなにも美味しいものなのにと。
今朝からの親先生の御理解を頂いて。所謂、喜びに喜び、喜びに勇みを付けてというのはここんところをね。しょうないそれを割って頂いたら、こんなにも美味しいものだと。水火の行というのはね、。丸い心を頂く事のため修行するんだ。
その修行が云うなら、所謂野村さんのそれぢゃないけれども、ね。どんな事があっても、例えば、もう黙って治めると決めたらです。もう歯を食いしばらねばならんような事がなくなった。暑いとは言うまい、そりゃ成程汗も流れるけれども、それを術ないと思わなかった。むしろ結構な修行さして頂いて有難いという心だけしかなかったと言うのです。
ですから今日の御理解などを、こう頂いておりますとですね。受け物が悪いからおかげが漏るという。その受け物作りに本気になるということは、構えを作らなきゃいけんということが分かります。最後には、厳しゅう言うておられますね。ままよ、ままよとは死んでもままよのことぞというふうな厳しい言葉が出てくるですね。ままよとは死んでもままよのことぞと、ね。
だからその辺の所をね、信心の稽古がだんだん出けて来るようになると。それこそ野村さんなら野村さんの信心を頂いておると、もう修行が楽しゅうなってくるんですよね。こんなに術ないはずのが術なくないということは不思議なことだと。このひと夏を暑いというて、苦しいことだとは思わなかった。結構な修行さしてもろうて有難い。だから一事が万事この生き方を体得していけば、云うなら行く手に恐いものはないといったような所まで心が育っていっておる、ね。
%3昨日、一昨日でしたかね。一昨日から昨日に掛けてでしょうか。築水の幹部の方達の研修が一夜の信心実習という、まあ信心実習という名の、まあ慰安会といったような事かもしれませんね。あの原鶴の温泉ホテルでだったそうですから。それで吉井の先生と、それから本郷の若先生とが講師に見えられて、今信心の研修というのぢゃなくて。どういうふうにすれば○少が育つかと。何と言うても次の時代を担うて行く若い信者が育たなきゃいけない。為には○少を育てるということには、こう云う心掛けが幹部の一人一人が持たなければならないといったような意味のお話だったらしい。
%3それも、私そんなふうに昨日綾部さんから聞いただけですから詳しいことは分かりませんけれども。だから信心の有難いという話しぢゃなかったけれども。やはり幹部として一応は常識的に知っておかなければならないような事をまあ聞かせてもらったというお届けがございましたが。どういうふうな信心を。教会自体がしたら、その若い者が育つか、○少が育つかという、云うならば方法論であります。
%4で私昨日、研修ん時に家の先生方に申しましたんですけれどね。家あたりは、別にどげなふうにして○少を育てるかち。言わんでんどんどん育っていきよるし、どういうところぢゃろうかのと言うて、皆に私が問いましたら。ある先生が、そりゃ一人でに物が出けていきよるとですよち、こう言うわけ、ね。
%4とにかく、信心は地を肥やせ、地を肥やしておけば一人でに物が出けるようなものという御教えがございましょう。そのことを言ったのでしょう。合楽の場合は、一人でに物が出けていきよるのですよ。云うならば、地を肥やしておられるから、また確かにそういゃそうですもんね。こうせにゃならん、ああせにゃならん。そして、なら幹部の方達が○少を育てるために、こうぢゃなくて○少がどんどん育っていくから、むしろ幹部の方達は、そんなら育成会も作らんならん、ちったこうやって援助もしてやらんならんといったうよなもんな育つのが先であって、後からこうやって付いていってるちゅうのが合楽の状態ぢゃないだろうかねと言うて話したことでした。
放任しとるわけぢゃない。育っていきよるから、もうじっとしちゃおられんごつなった、ね。それを、その辺の所がね。あの合楽の場合は違う。しかも合楽の○少といや○少の中からお道の教師が次々とその出おるという事実から見ると、これが本当のお育てを頂いておるといや、そういう事だとこう思う。
%5昨日は、ブラジルから長々とした手紙が若先生宛に来ておりました。もう兎に角、もう合楽の祈りの凄まじさに唯々恐れいっておりますといったような意味のことでいっぱいでした。いろいろとおかげ頂きよります。いろいろまたそりけれども、まあ難儀な問題も沢山あるけれども。そのたんべんに合楽理念の素晴らしさをいよいよ感じております、分からして頂いとるという手紙の中に、最近ブラジル国はカトリックの国が国の宗教になっとるわけです。ですから絶対他の宗教入れんというのが、まあブラジルの建前だったんです。最近は特に厳しくなっておったという。
%5末永先生どんが行く時にゃ、絶対出来ないというところを行けたというところにまあいつも不思議を、凄まじい働きを感ずるわけですけれども。その宗教、特に宗教者に対する厳しいそれが非常に緩和された、ね。その緩和していく具合を思うと、まあ合楽の祈りの凄まじさを感じるというような事を書いてございました。
%5丁度四時の御祈念が終わりましたから、四時の御祈念からそのことをあの読んでもらったばっかりでしたから。南米の方でおかげを受けておること。また宗教関係が緩和されていきよるということを新聞記事を切り抜いて送って来ておりましたから、その事をお届けさして頂きよりましたらね。御心眼に私頂きますのが、『あの大きな十字架がこんなに倒れかかっとる。その倒れかかっとるのに、こうぶら下がっとる。』ハハア先日も私はテレビを見よったら、キリスト教というのは、結局十字架を背負っての生涯ね。
%5云うなら、茨の道を歩かなければ、神にちがづくことが出けんと説いておりますですね。茨の道を歩いていかなければ、神様には接近出来ない。大体一応どの宗教でもそういうふうにまあ申しますから。結局、表行的な行がなされるわけですけれども。合楽の場合は、そうぢゃないですね。もうそれこそ楽しゅう、こちらさえ構えさえ。今日の御理解で言うと、作れば、云うならば普通で言うなら、茨の道かも知れません。兎に角暑くて汗ぶるぶるの道かも知れませんけれども、そこに暑さを感じないという手立てが説かれるのですね合楽理念は、ね。
だから茨の道ぢゃないわけ。それこそ楽しゅうして有難うしてね。それこそ喜びに喜んでという心が募ってくるばかりなんだと、ね。そこに云うならおかげが受けられる。所謂、神様がね降るように下さっておるおかげを、云うならば受け止めて行くことが出来るというのが、まあ金光教の信心だと思うです。とりわけ合楽ではそう説くわけです。それをまあ実験実証して行かなければならんわけです。
%6私は昨日、その○少のことを思うてみて、丁度昨日やつなみという、桜井源吾という先生がお教会でお医者さんです。沢山なあの病院も持っておられましてね。それで教会、素晴らしい、何ちいうでしょうか。まあ運営がうまいわけですね。それで今度も何億かけて六階建ての教会を造られてね。それを一般市民にも公開して、いろんな何とか、年寄り何々大学ちゅうのがありましょうが。あげんとを開いたり、云うなら社会に自分は貢献しとるとまあ言うておられますけれども。先生は非常に、なんと言うでしょうかね。皮肉がうまいというか、教団のことでもこう批判を上手にされております。
%6百年祭を目指していろいろな行事があっとるが、果たして結果が成果が上がっておるかどうか。あんなこっちゃ上がるとは思わん。こりゃ手前味噌になるけれどもというて、自分所の教会のことをこうして、こういう繁昌しとるという意味の事を書いておられました。
それをね。まあ読んでもらって、聞かせて頂きながら確かにそうでもあるなあというふうに思いました。先の○少のことぢゃないですけれども。結局、あの方法論で言うならば、教団を大きくしていこうということでは金光教の信心は大きくはならない。
問題は人が助からにゃならん。助かるためには、まず取次者自身が助からにゃいけない。云うならば金光大神が先に立って、云うならば開墾して下さり、その後に布教に行く。だからこういう、なら布教が出来る。みやすう出けて段々行くようになるというようにです。その受け物をまず作ることを先決にしなければならない。
結局おかげの受け物を作ることを先決にしなければ、こうしてこうすればこうなるといったようなものではなくてです。まずは自らの心自体が助かって行く手立てね。なら助かるということは、どう云うことかというと。暑い中にでも暑いとは言わんと腹を決めたら暑くない。暑いかもしれんけれども術ない、しるしいと思わない。それがそのままおかげの受け物である、ね。
所謂、水火の行である。まずおかげを頂く為に修行するのぢゃない。先ず受け物を作るために、丸くなることのために修行をするという生き方を持ってしなければ神様が、云うなら降るように下さってあるおかげも頂く事がでけません。
それをぎりぎりの言葉で表現してあります。この言葉を借りる、教祖の言葉を借りると、ままよという心。それこそ死んでもままよのことぞと仰せられるような。云うなら、はまる姿勢のことを教えておられるんだと思うですね。
構えを作って、先ずは受け物を作る。そこに、ならおかげは降るようにあっておるというおかげを受け止めて行くことがでける。金光大神の教えを行じようとしないで、ただ方法論を言っておるのは、丁度十字架にぶら下がっておるようなもんぢゃないでしょうか。
そりゃキリストの信心で言うならば、云うなら十字架を背負うて茨の道を歩いていくという構えがいると、キリスト教ではいると説かれるわけですから。そういう元が無くなって来たわけですね。
本気でその十字架を背負うとか、茨の道を喜んで渡るというような人が少なくなってきた。それで十字架が倒れかかって来た。そこに云うなら他の宗教をもというなにか緩大な決まりといったようなものがブラジル国の上に出けていっておるのではないだろうか。そういう働きを合楽の祈りの凄まじさが、そういうことにおかげ頂いておるというふうに、まあ末永先生は感じておるということでございます、ね。
お互いが教えにぶら下がるのではなくてね。教えを血肉にしていくというそのはまりというものがままよという心。もうおかげとそういうことぢゃなくて、ままよという心になってはまってその修行に取り組む。そこには、云うならば難儀というものはない。恐いものはない。という程しのおかげが頂かれる、ね。だから構えを作るということがです。まあ難しいと言うなら難しいかも知れませんですね、ね。
もうこの夏は暑いということは言わんと腹を決めましたとこういうたら、おかげで暑いといわんですむようなおかげを神様が下さってあるというのが野村さんの昨日の発表でしたが。それを聞かせて頂いて感心すると同時に、ははあ昨日の朝の御理解の喜びに喜んでの道とはそういう道だなあと私が言う喜びに勇みを持ってそれに取り組むということはそういうことだなあというふうに思いました。どうぞ。